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月を見上げている
23

「折田さん。お疲れ様ですぅ。今日も行っときます?」
 うふっ、と人差し指を顎に当てて、斉藤が見上げてきた。連日の飲みと、押している仕事に追い回されて、大輔は疲れた視線を向けた。
 結局、何の進展も得られぬまま月末を迎えてしまった。明日には正式な辞令が下りる。
「あー今日は止めとく。たまにはゆっくりしたい」
「えー、そうなんですかぁ? せっかく美佐のお悩み相談室開こうかと思ったのにぃ」
「てめっ。適当なこと言ってんじゃねえよ。人の奢りで飲みやがって」
「それはぁ、相談料です。あとはぁ、へこんだ折田さんを励ます励まし代というかぁ」
「いらんわ」
「またまたぁ。わかってますよぉ。美佐に話を聞いてもらいたいくせに」
 あーはいはい、また今度ねと軽口を叩き合っている横を、すでに帰ったと思っていた樹がすっと通り過ぎた。
「お疲れ様でした」
 こちらも見ずに足早に出口に向かっていく背中が怒っているように見える。いつも無愛想だが、今日は殊更そっけない。露骨なまでの不機嫌な態度に、何かあったのかと反射的に腕を掴んだ。
「おい、なんかあったのか?」
 掴んだ腕を吃驚するほど乱暴に跳ね除けられて、大輔もカッとなった。振り払われた腕をもう一度掴んで無理やり引っ張り、そのまま廊下へと進む。周りが何事かとこちらを振り返ったが、気にしている余裕もなかった。
 会議室のドアを開けると樹を中へ放り込んで、後ろ手で閉める。バタン、と勢いよく閉まったドアが震えて、それは大輔の怒りをそのまま伝えているようだった。
「お前、その態度はなんなんだ?」
 掴まれた腕が痛むのか、擦りながら下を向いている顔は、相変わらずの仏頂面だ。
「すみません。ちょっとイラついてたから」
 小さく言い訳する声は全然謝っていない。
「今後気をつけます」
 こちらを見ずに出て行こうとする入り口に立ち塞がって、大輔は腕を組んだまま樹を見下ろした。
「ちょうどいい。話もあったんだ」
 湧き上がる怒りを一旦納めて、いいチャンスだと思うことにした。なんにしろ二人で話をするのは久しぶりだ。去年のあの日以来だったから。悩みがあるのなら聞いてやりたかったし、力になりたかった。
 それに確かめたかった。樹の本心を。
 ひとつ大きく息を吐いて話し出そうとする大輔を、樹が冷たく遮った。
「俺のほうはないですけど。それよりいいんですか? 斉藤さん放り出してきて」
「……あれは大丈夫だ。なんて事ない」
 そんな事よりと、口を開きかけた大輔を見ることもなく、樹が薄く笑った。口の端を歪めて。
「ああそうでしたか。失礼しました」
 頑なな樹の態度に一瞬心がひるむ。こんな樹の表情は見たことがなかった。一向にこちらに目を向けようとしない横顔に、それでも言わなければと、自分を奮い立たせた。
「あのな……いつかの晩の事だけど……」
 初めて樹がこちらを向いた。大輔の次の言葉を待っている。
 だけど、何て言えばいいんだ?
 あれは気まぐれだったのか?
 まだ浩ちゃんを忘れられないのか?
 違う。責めたいんじゃない。気持ちを伝えたいんだ。
 気持ち? どんな気持ち?
 言いたいことは山ほどあって、喉の奥のここに確かにあるはずなのに、具体的な言葉となって出てこない。頭に手をやって、そうすれば答えが出てくるかのようにガシガシと掻いた。
 それが相手には、困惑して、弱りきっているようにしか見えないことなど、考えにも及ばない。
「……心配しないでも、誰にも言わないし」
 え、と手が止まる。
「あれをネタに、脅したりもしないし」
 言われていることが解からなかった。耳に入ってくる言葉は、大輔の思い描いていたものとあまりにもかけ離れていて、理解しようとする作業を拒否したように止まったまま動かない。
「俺も、あん時ちょっと普通じゃなかったし、忘れてほしいっていうか……」
 ワスレテホシイ?
「ほんと、後悔してます」
『後悔』という言葉が胸に刺さった。喉の奥にあった言葉が完全に、消えた。
「だから、折田さんも忘れてくれたらありがたいです。このまま仕事がやりづらくなるのも嫌だし」
 迷惑かけてすみませんでしたと頭を下げられて、出てきたのは乾いた笑いだけだった。
「はは……そうか……そうだよな」
 なんだ。そうなのか。後悔していたのか。それなのに自分一人で浮かれて、馬鹿みたいに追いかけ回して……笑っちゃうな。
「……わかった。話はこれで終わりだ。悪かったな、俺の方こそ」
 ほっとしたように浮べられる気弱な笑みを、もう正面から見ることが出来なかった。 
 ほっとされたのかと思うと、どこかが痛んだ。痛すぎて、もうここに立っていることもつらかった。
 樹を残して会議室のドアを開ける。
「ああ、仕事の心配はいらねえぞ。俺、異動だから。じゃ、お疲れ」
 樹がはっと顔を上げた気配がしたが、振り返らなかった。振り返れなかった。自分が今どんな顔をしているのかがわかるから。
 そのままドアを閉めて、鞄を取りに廊下を歩いた。
「あ〜、折田さぁん。いたいた。捜したんですよぉ」
 間延びした声に救われたように足を速めた。
「おお、なんだ、まだいたのか?」
「え〜。だって、いきなり久島さん掴んで何処かへ飛んでっちゃうんですもの。びっくりしましたぁ」
「そうか。悪ぃ悪ぃ。ちゃんと説教してやったから、もう話は終わりだ。斉藤、飲みに行くぞ!」
「え〜、やっぱり行くんじゃないですかぁ」
 当たり前だと、斉藤の肩を叩いて急かした。思ったより普通の声が出せてほっとした。
 大丈夫だ。大丈夫。自分に言い聞かせながら、それでも背中に残した樹の姿を胸に抱いたまま、痛む何処かを確認するのにも疲れて、張り付いたような笑顔を浮べ、春の気配のする街へと歩き出した。



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