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月を見上げている
27

 送別会は最高の盛り上がりをみせてお開きになった。
 樹の姿はいつの間にか消えていた。途中でいたたまれなくなっていなくなったのか。他の連中に聞いても、いつ帰ったのか知らないと言う。無理もない。
 勤め最後の日に、『失恋記念日』という、不名誉なあだ名を付けられて、失恋カラオケで失恋二次会をしようという誘いを、傷心ですからと丁寧に断り、失恋男は別れの花束を胸に抱いたまま、一人家路についた。
 最悪な気分だ。
「忘れてくれ」と、はっきりと言われた本人の目の前で、それに傷ついて荒れていた自分を暴露されてしまった。
 あいつはどう思っただろう?
 最後の日に嫌な思いをさせてしまった。だけど改めて謝ることも、もう出来ない。
 もう癖になってしまった溜息を一つついて、トボトボと歩いた。
 もういいさ。終わってしまったことだ。風呂に入って寝てしまえ。どうせ明日から休みだ。ゆっくり引越しの準備をしよう。
 自分で自分を慰めながら、重い足を無理やりに動かして前に進む。肩に担いだ花束がガサガサと揺れていた。
 部屋の前の人影にドキリとする。
 前にもあった光景に、駄目だ駄目だと言い聞かせながら、高まる期待が止められない。もっとも、シチュエーションは前とは逆だったけれど。
「……なんだよ?」
 不機嫌な声が出る。これが上機嫌で言えるものか。
 黙ってビール入った袋を見せられた。
「上がるのか?」
 俯いた肩が震えていた。一瞬、泣いているのかと思ったが、逆だった。笑いをかみ殺している。クツクツと、堪えきれない笑いが樹の体全体を揺らし始めた。
「笑ってろよ。バーカ」
 憮然としたまま鍵を差し込む。後ろの気配はまだ消えない。
 期待と、それを諌める気持ちとが同時に起こる。部屋に入れば、それはどういう意味を持つのか分かって来たのか。
(いいのか? いいんだな? 俺はそういう風にとるぞ。男だからな。お前も男だけど)
 だけどそれでまた拒絶されたらどうする?
 ただ本当に話に来ただけだったら? 
 自分とのことを斉藤に話して、酒のつまみにされて怒ってきたのだとしたら? 
 それとも、軽い気持ちだったのに傷つけてごめんなさい、なんて謝られたら?
 短い時間に色々と考えすぎて、それでも結
 論が出せず、玄関に立ったまま靴が脱げない。怖かった。
 ――折田さんが分からないみたいに、相手だって折田さんの気持ちなんて言わなきゃわかりませんよ
 斉藤の言葉が蘇る。
 振り返ってもう一度聞く。意味を込めて。
「上がるのか?」
 渾身の意味を込めて聞いたのに、樹は何も言わずに、すっと大輔の横をすり抜けて靴を脱いだ。こっちがこれだけ緊張しているのに何だよ、と半ば力が抜けて、後に続いて部屋に上がった。
「全然引越しの準備、してないじゃん」
「ああ、忙しかったからな。休み中にやるさ。時間あるし」
「いつ引っ越すの?」
「来週の水曜。」
「場所どこ?」
「川口。本社からは電車で二十分ぐらい」
 短い問いに短く答える。聞いてどうするんだ、とは言わなかった。来てくれるのか? なんてな。
 台所のシンクに、貰った花束をそのまま入れた。花瓶なんか持っていない。
「二次会は行かなかったんだ?」
「行けるかよ! あんな……いい酒の肴だ」
 樹がまた噴き出した。今度は外での遠慮がなくなって、体を折ってげらげら笑っている。    
 笑われているネタを考えると、とても笑えるものではなかったが、あんまり楽しそうに笑われたから、何だかどうでも良くなって、大輔もつられて笑ってしまった。
「さ、斉藤さんって……すげえ」
 息も絶え絶えになって樹が笑う。
「あいつはああなんだよ。みんな知らなかったのかよ」
 初めて連れて行った営業先のスーパーで、『春野菜フェア』と称した、鮮やかな緑の法被を着ていた店長に「河童みたいですねえ」と、笑顔で言ってのける奴なんだ。
「だって、小さくて、可愛いからさ……あんな……ひっ、ひっ」
 引きつったみたいになって笑っている。こんなに笑う樹を見たのは初めてだった。
「お前……笑い過ぎだって……」
 一緒になってひとしきり笑って、その後に大きな溜息が出た。「あーあ、馬鹿だよな、ほんと俺って」と溜息と一緒に言って、樹の方へ手を突き出した。涙を流してまだ体をひくつかせていた樹が、笑った顔のまま大輔の手を見た。
「ビール」
 持ってきたんだろうと、もう一度手を差し出す。
「笑い過ぎて、喉渇いた」
 樹は手を見つめたままだ。くれよ、と促すが、動かないまま見つめ続ける。


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