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月を見上げている
29

 まるで最初からそこにあるのが当然だったように、長いこと捜していた場所がそこであったと確かめるように、静かにそこに顔を埋めている。
 ようやく届いた、唇が触れる距離に樹の体温を感じる。感じるまま樹の髪にキスを落とした。ふんわりと、樹の仄かな体臭が鼻腔をくすぐる。
 伝えたい言葉がある。だけど、口にするのが恥ずかしくて、口にしてしまえば軽々しく聞こえる気がして、どうしても言うことが出来ない。
 ――言葉にだして言わないとわからないですよ。
 斉藤の言葉がまた聞こえる。
 そうなのだ。あの時、樹のかつての恋人の姿を目にした時に自分が感じた嫉妬と、体を重ねた時の喜びを、素直に口にすればよかったのだ。
 樹もただ欲しいと、自分を欲しいと言ってくれればよかったのだ。――一言、好きだと伝え合えばよかったのだ。
 言ってしまいたいのに、聞かせることがどうにも気恥ずかしくて、それならば、耳を塞いでしまえばいいと、単細胞な頭が知恵を絞り出した。
 樹の髪を食んでいた唇を耳元まで滑らして、それから両手で耳を覆った。
「樹……好きだ……」
 ずっと大輔の顎の下に埋めていた顔を上げて、まるで尋ねるように、なに? と見上げた瞳が大輔を捉えた、そのまま緩やかに広がっていく笑みに見とれていると、静かに、そっと、その唇が合わさってきた。
 柔らかい唇が触れる。触れては離れ、また重ねられるくちづけ。
 軽く上唇を噛まれ、お返しに噛み返す。閉じられた歯列に、入れてと、舌でノックする。受け入れるように軽く開かれた隙間に、静かに侵入していった。
 戸惑うようにそっと差し出された薄い舌をやさしく噛んで、自分の中に引き入れる。ちゅっ、と音を立てたのに驚いて逃げるのを追いかけた。
 両手で覆っていた指に力を込めて仰向かせ、深く浸入する。尚も逃げようとするのを逃すまいと、舌の根元を絡め取る。
「ん……」と、小さな喘ぎを聞いた。
 薄く目を開けると、苦しそうに眉を寄せていたから、息継ぎに一度離してやる。はあ……と、息をつくのを確認して、再びその口腔を犯した。
 上顎から歯列の隅々までを丁寧に辿る。
 ずりずりと崩れ落ちていく体を支えながら、大輔も一緒に少しずつ降りていく。
 互いに膝立ちになりながら、飽きることなく、樹の柔らかで、熱い唇を貪り続けた。
 奪っても、奪っても、奪い足りない。飢餓にも似たその感覚に、どれほど自分がこの男に餓えていたのかを思い知る。
 やがて耐えかねたように、樹がいやいやと首を振った。それでもまだ足りなくて、抱き寄せようとする大輔の胸を、自由の利く片方の手で押し返してくる。まだ嫌だ、離したくないと、背けられた耳や首筋に舌を這わした。
「ちょっ……と、もう……っや……」
「なんで?」
 お前は欲しくないのかと、攻めるような口調になった。喘ぐように息をつく顎を、逃げないように掴んで、噛み付くように奪う。
「んっ、んっ……やだ……って……」
 本気で嫌がっているのかと、ふいに不安になる。きつく拘束していた腕を緩め、窺うように覗き見た瞳は潤んでいて、新たな情欲を掻き立てられる。暴走しそうになる衝動を懸命に堪えて、それでも名残惜しくて、柔らかな唇を指でなぞった。
「……嫌だったか?」
「そう……じゃ、なく、て」
 俯いた首筋から耳へと、すうっと血が上るように紅く染まっていく。
「……良すぎて……もう……駄目になりそうだから……」
 静かに囁かれた言葉に息を呑む。
 体の何処かでバチン! と、音がしたような気がした。
「……っ、てめえ……そういうことを言って」
 樹の腕を引いて立ち上がらせる。
「どういうことになるか、わかってんだろうな?」
 もう止められないぞと、強い力で引き寄せて、よろめく体を抱きとめた。応えるように背中に廻された腕に安堵して、体を屈めて耳元へキスを落とす。
「とりあえず、手に持ってる袋を放せ」
 言われて初めて気がついたように、ずっと握っていたビールの入った袋を眺めて、樹がくすっと笑った。
「ぬるくなってるかも」
「かまわねえよ」
 喉は渇いていたが、今はもっと欲しいものがあるから。

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