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月を見上げている

 二人で同じ方向の電車に乗り込んだ。浅草橋からは、飯田橋も、新宿も、JR一本で行くことができる。
 車内はほどよく空いていて、ちらほらと空いている席もあるが、二人で並んで座るのも、何だか変なような気がして、ドアの近くに立った。
 窓からは川が見える。その周りはピンク色に染まっていた。桜がそろそろ満開の時期だった。
「この週末が一番見ごろだろうな」
 樹の視線の先を追って折田が言った。口元がわずかに綻んで、きれいだなと目を細めている。
 桜を見ると人はみんな優しい顔になる。他の花もきれいだけれど、桜は例外なく人の気持ちを浮き立たせるようだ。
 きっとそういう花なのだろう。
 風が吹いて、花びらが、サアッと舞いながら水面に落ちていくのが見えた。
「北海道はまだ咲かないな。いつ頃だ?」
「さあ。どうだったっけ。あんまり憶えてませんけど」
「えー、なんだよそれ。桜だぞ、桜。毎年テレビでも、開花宣言とか、桜前線とかやってるじゃねえか」
「……ですね。すみません。興味がないんで」
 なんだよそれ、ともう一度言って、折田は笑顔のまま、窓の外に目を向けた。
「やっぱ、あれだよな。北海道つったら、桜よりラベンダーか。あー、行きてえなあ北海道!」
 これだ。また始まった。
 これが嫌なのだ。
 樹が折田を苦手とする一番の理由がこれだった。
 北海道、北海道。
 折田は北海道に異常にこだわる。そして樹の顔を見ると、出身地の話を持ちかけてくる。
 北海道大好き。というより、あるドラマを観て以来、その舞台である北海道に憧れているのだと言う。
 富良野を舞台にしたそのドラマを、樹は観た事がない。もちろん大ヒットしたのだから、その存在は知ってはいたが、それは樹がまだほんの小さい頃の話だ。根強いファンもいて、観光地化されて、地元に大きな貢献をしてくれたドラマだが、興味がない。どちらかというと、同じ俳優が演じた医者の話なら、樹にもついていくことができるというものだ。
 そもそも折田の両親が、このドラマの大ファンで、子供のころから何度もビデオを観せられたのだそうだ。そして感化されて、洗脳されたらしい。
 学生の時は何度も北海道旅行をし、たぶん樹より地元のことは詳しいかもしれない。
 観たこともないドラマの話を延々と聞かされて、観ていないのなら是非観るべきだと強要された。
 はっきり言って迷惑だ。
「大体、俺、富良野じゃないし、札幌出身だし。そういうのは趣味の合う人同士で語り合った方が、楽しいんじゃないですか?」
 こちらの態度が頑なだったのも、今思えば悪かった。大人の対応で「そうですね、いいですよね」と適当に相槌を打っておけばよかったのかもしれない。
 敵はもはや、意地になったように、樹に北海道教への入信を迫ってくる。
 うざい。うざ過ぎる。
 そんなに好きなら、いっそ向こうに住んでくれたらいいのに。折田ならきっと、何処へ行ってもマイペースでやっていける。あの大きな体だ。むしろ折田こそ北海道に相応しい。牛や熊と楽しく暮らせばいいじゃないか。そして自分の事は放っておいて欲しいのだ。
「そんなに行きたきゃ行けばいいじゃないですか。俺、止めませんよ」
「冷たいこというなよ。ほら、故郷って、遠くで思うもんだろ。俺は東京で、北海道を思ってお前と語り合いたいわけよ」
「何言ってるんですか。折田さん、千葉出身でしょうが」
「心の故郷なの!」
 可愛くねえなと、また頭をぐしゃぐしゃにされた。
「また! ほんと、勘弁してくださいよ」
「可愛くないことばっかり言うからだ。そういうことばっかり言ってっから……」
 折田がいたずらっ子みたいな顔をして、にやついている。
「……なんでしょうか」
 また何か企んでいるのかと身構えて、自分より頭一つ上にある目を睨み上げた。
「乗り過ごすんだよ。ばぁか」
「っ!……あっ!」
 窓の外を見れば、すでに降りる駅を通り越して、次の駅にある遊園地が見えていた。
「なんだよ。意地が悪いな。教えてくれたっていいじゃないですか」
「俺だって、今気づいたんだよ。俺がわざとそんなことするかよ」
 ……まあ、そうだけど。
 電車が停車する為にスピードを落とし、動転していた樹はよろめいてしまった。おっと、と腕を掴まれ、かろうじて踏みとどまる。
「お前ってほんと、面白いな」
 ほれ、踏ん張れ、道産子! と背中をポンと叩かれて、電車から送り出された。ホームに降りて振り返ると、楽しそうに大きな笑顔で小さく手を振られた。
 まったく。
 あいつといるとこちらのペースが乱される。普段なら乗り過ごすことなど、絶対にないことなのに。
 忌々しい気持ちに軽く唇を噛んで、引き返すべく向かいのホームに並んだ。すぐ駅の近くに野球ドームが見える。入り口に向かう道にも桜並木が花を咲かせていた。
 前に並ぶ、赤ちゃんを抱いた女の人の髪に花びらがついていた。ピンク色の小さな一片は赤ちゃんの爪にも似ていた。
 ここにも春がある。
 春が来た、春が来たと、何処もかしこも樹に教えてくれる。
 ――知っているよ。春は誰の所にも平等にやってくる。だけど、俺にはそれを喜ぶ準備がまだ出来ていないんだよ。
 お母さんに抱かれてこちらをじっと見ている赤ん坊に、樹は微笑んでみせた。
 それは、困ったね、というような、淡い微笑みだった。


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