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月を見上げている |
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外に出たら風が吹いていた。 朝、晩はまだ冷えるといっても、昨日よりは今日、今日よりはきっと明日と、確実に暖かくなっている。 春が東京を包んでいる。 酔った体には心地よい風だった。 店の前でみんなと別れ、ゆっくりと駅への道を歩いていてふと、途中にある小さな神社のある道に入って行った。終電までにはまだ充分時間がある。少し酔いを覚ましてから帰ろうと、境内の階段に腰を下ろした。 明日は土曜日。急いで帰っても何もすることもない。 酔いが落ち着いてくると、やはり少し冷えてきた。ぶるっと小さく身震いして、空を見上げる。 沢山の明かりが映っていて、空は夜なのに、夕焼けのようなグラデーションを作っている。出ている月は、薄く霞んで明るい空に滲んでいる。星も一つも見えなかった。 田舎なら、札幌の実家のベランダからなら、きっと沢山見えただろう。 北海道、北海道、か。 さっきの折田の言葉を思い出して苦笑した。 別に田舎が嫌いなわけじゃない。生まれ育った街だ。思い出は沢山ある。 先週末だって、実家から電話がきて話をしたのだ。来年姉貴が結婚するらしい。 ふうん。おめでとうって、別段何の感慨もなくお祝いの言葉を述べた。本人に言いなさいよ、代わるからと言われて、別にいいよ、言っておいてとそっけなく断った。姉弟なんてそんなものだ。 夏はやっぱり帰って来ないの? と聞かれ、わからない、と答えた。多分帰らないだろう。就職してから一度も帰っていない。別に意味があるわけじゃない。わだかまりもない、はずだ。 家族には、忙しいからだと言ってある。その通りだし、それだけでもない。 『姉ちゃんが結婚する前に、一度帰っておいで。家族で過ごすのも最後になるから』 『そうだね。考えとく』 ……帰れるかな。 平気な顔をして会えるかな。 困ったような顔をしたあの人の笑顔が浮かぶ。 会って笑える? マダ、ワスレラレナイ? ぼんやりと空を眺めていたら、不意に頬にヒヤッとした物が触れて、びくっとなる。 「つめたっ」 驚いて見上げると、折田が立っていた。手にミネラルウォーターのボトルを持っている。 「……びっくりした」 「空見上げて、呆けているからさ」 全然気がつかなかった。 「なんだ。そんなに酔っ払ったか?」 「どうかな。でも結構飲んだかも。酔い醒ましてから帰ろうかと思って」 そうか。とだけ言って、ほら、とペットボトルを差し出された。 ありがとうと、素直に受け取る。 ……やっぱり苦手だ、この人。 そういう風に人の懐に入ってこないでほしい。無神経なくせに、変なところで優しくしないでほしい。 やさしくされるのは、苦手だ。 どうしていいのかわからなくなる。 張り詰めていたものが、プツンと切れそうになるから。 お、と言って、折田の手が樹の髪に伸びてきた。またぐりぐりやられるのかなと身構えたけれど、その手はすぐに離れた。 「ほれ」 大きな手に乗っていたのは、小さなピンク色の花びらだった。髪に付いていたらしい。 「まだ、どっかで咲いているのかな」 お堀の桜も、樹の住むマンションの近くの桜も、すでに散ってしまっている。今頃、もっと北へと春を運びに移動しているのだろう。 電車を乗り過ごして降りたホームで、赤ちゃんの爪のようだと思ったのは、先々週のことだったか。 折田の手の中の花びらは、あの時よりも小さく、小さく見える。 ぼうっと、その花びらを見つめた。 樹のところへも、遅ればせながら春は来てくれたのだろうか。 おぼろ月だなと、折田が空を見上げている。 奥深くにしまってある記憶の扉がそっと、音も立てずに開いていく。 「……誰だっけな」 「あ? なに?」 「誰かの詩(うた)で、さくらのこといってたやつ」 「あー、そりゃ、たくさんあるだろ。昔からみんな桜は好きだしな。どんなやつだ?」 「桜だよ、春だよって」 教科書に載っていた。あれは誰の詩だったのだろうか。 「へえ、そういうの好きなんだ。風流だな」 「そんなんじゃないですけど。憶えているの、それだけだし」 「で、そのあとは? どう続くんだ?」 「桜をよそに、どっかの馬鹿は、月を見てるって」 はは、と軽く笑われた。 「それはなにか? 俺のことか?」 馬鹿にならねば、本当の春にはあえないという。 桜だ、春だと騒ぐどこかで、誰かが泣いているという。 あれは誰のことを詠った詩だったんだろう。 「まあ、そんな奴もいるかもな」 大きな手が近づいてくる。 ぽん、と頭に手を置かれた。 不意に、熱いものがこみ上げてきて、樹は思わず下を向いた。 大きな手はぽん、ぽんと、優しく頭を叩いている。 それがまるで、大丈夫だよ、と言われているようで、お前も春を喜んでいいんだよと、言われているようで、瞼が熱くなってくる。 慌ててペットボトルを口に含んだら、とぷん、と水が跳ねて顔を濡らした。 「あ」 水を拭う振りをして、乱暴な手つきで顔を拭いた。 「大丈夫かよ。そんなに飲んだのか?」 顔を覗き込まれて、今度は別な感情がこみ上げてきた。 もう一度水を飲んだけれど、今度は水が跳ねなかった。 ふうっと、息を吐いて、ペットボトルを頬に当てた。店を出た時よりも顔が熱くなっている。 火照った顔を見られたくなくて、樹は深くうな垂れた。 大丈夫か? と心配そうに折田が背中をさする。大きな手に優しく摩られて、ペットボトルを抱いたまま、樹の体はどんどん丸く、小さくなっていった。 さあっと風が吹いて、折田の掌に乗せられていた花びらが運ばれていった。 ひらひらと、頼りなげに舞い上がっていく小さなそれは、樹の記憶をも一緒に夜空へと連れて行ってくれるようだった。 |
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