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続・月を見上げている
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 予約していた旅館に着いたのは、それでも夕方近くになっていた。
 予定よりも早く着いて、今からでも夕食のご用意ができますがと、人のよさそうなフロントに言われたが、その時は館内のレストランか、遅くまでやっているというやはり館内にある居酒屋でとるからと断った。宿に着く途中のスーパーで食料を調達して、荷物の中に潜り込ませてある。誰にも邪魔されずに、しかも部屋からは一歩も出ないつもりらしかった。
 案内された部屋は離れになっていて、一旦建物を出たところに広がる広大な敷地の中に、ぽつぽつと建てられた中の一つだった。
 一つ一つが独立された離れの部屋には、露天風呂が備えてあり、その奥には小川が流れていて、続く小道は散歩ができるようになっていた。
 玄関の広い三和土を過ぎると、十二畳程の広間があり、手前の右手に手水場、左手にはこれも広めの室内風呂と洗面所があった。広間の続きに、こちらは和室にベッドという八畳ぐらいの寝室が見える。主室の窓を開けると、部屋に入るときに見えた小川のせせらぎが聞こえてきた。露天風呂の湯を湛えるチョロチョロとした水音も一緒に。
 客室係りの説明を聞いている大輔を置いて、樹は部屋を散策していた。地元だから、近くに温泉が多いことも知っているし、家族で行ったことも何度もあったが、こういった所は初めてだった。故郷を離れてからは、旅行自体あまりしたことがなかったし、ましてや恋人と何処かに泊まったこともない。大輔は来たことがあるのだろうか。ここ以外にも、こういう場所に誰かと泊まった事があったのだろうかと、またもや不穏な疑問が湧いてくる。
「気に入ったか?」
 慣れた様子で窓の外を指差し、そこを歩くと先に小さな滝があることや、夜になると、道に雪洞が灯る事などを教えてくれる。
「この辺はまだ桜が咲いてるってよ。さっきの人が言ってたぜ。あとで行ってみようか」
 返事をせずに窓の外を見ていたら、樹の疑問を察したのか「まぁた、へんな疑いを持ってるんじゃないだろうな」と後ろから頭をポンと叩かれた。
「前に旅行した時に寄ったんだ。昼飯だけここでとった。泊まるのは初めてだぜ」
 にやにやと、樹の疑念を笑っている。
「いつか嫁さんとかできたらな、連れてきたいなって思ってたんだ」
 驚いて振り返った。
「まさか、男を連れてくることになるとは俺も思わなかったぜ」
 一言多い男の顔は、それでもとても嬉しそうで、満足そうだ。乗せていた手を胸元にひきよせられて、樹の頭が大きな肩に乗っかる。「気に入ったか?」ともう一度聞かれて「うん。すごく」と、いつになく素直に返事をした。
「俺たちには新婚旅行とか、ねぇからな」
 呟くように零れ落ちた言葉に、ふと思いつく。
 もしかしたら、大輔は心配をしたのかもしれない。樹が姉と初恋の相手である幼馴染みとの結婚に、胸を痛めているのではないかと。
 車の中でも少し変だった。よく眠れたというと安堵していた。札幌のホテルでも今考えれば、気遣うような素振りだった。そもそも北海道に一緒に来たこと自体、考えてみればおかしな話ではないのか。
 たった三日間だ。仕事をしている平日は別々なのだから、樹が三日間北海道に行っていても、それほど長く会えないというわけではない。この宿だって、樹が一緒に行くことを承諾してから予約をしたのだ。その前はただただ一緒に行きたいと、とんぼ返りでも付いていくと言っていた。
「なあ、もしかして、なんか心配した?」
「何が?」
「俺が、姉貴たちの結婚式に出て、感傷的になるとか、傷つくんじゃないかとか
「……別に」
 大輔が不機嫌そうに答えた。それは、樹が初めて見る顔だった。そういえば、大輔の送別会の時、斉藤が言っていた。初恋がどうのこうのって。もしかして拘っているのか?
「つか、感傷的になったのかよ?」
 子供みたいに拗ねている。いつもだったらこれは樹の役目だ。拗ねて、甘える自分を笑ってからかっている大輔が、今日は不貞腐れてまるで逆になってしまっている。
「……妬いてんの?」
 覗きこんだ顔を背けられて、ぷっ、とそっぽを向かれた。
「んなことあるか!」
 妬いている。あからさまに。
 突然、抑えきれない愛しさが胸の奥から湧き上がってきて、どうしようもなくなる。笑っちゃいけないと思っても、顔が綻んでしまって止められない。
「てめ、笑ってんじゃねえよ」
 頬を掴まれて、ギュッと押された。
「ちが……ごめ……」
 怒って吊り上っていた眉が、次の瞬間情けなく下がったかと思うと、はあっと溜息を吐かれた。そのまま縁側に置いてある椅子に座り込んで、両手で頭をガシガシと掻いている。
「情けねえなあ、チクショウ」
 うな垂れる頭に手を伸ばして、自分よりも硬い大輔の髪に指を絡ませた。
「おあいこだ」
「あ?」
「俺も、斉藤さんに焼きもちやいた」
「だから、あれは……」
「誤解なんだろ? 一緒だ。それに、他にもいろいろ考えて一人で妬いてた。俺の方がずっと……情けない」
 結婚式なんてどうでもいいくらいに、浩ちゃんとのことなど、すでにずっと昔のことになっていた。思い出すこともない。式の最中も、家に帰ってからだって、考えることは大輔のことばかりだった。
「日帰りだってよかったんだ。そしたら、帰って来てずっと一緒にいられたのに」
 仮に一泊しても、東京と北海道の距離に阻まれていたら、昨日のような、焦れるような気持ちにはならなかったのに。
「近くにいるのに……あんた、来るなとか言うから……」
 髪に絡ませていた指が、熱を帯びていく。
「樹……」
「俺、自分が怖いよ……」
 いつか大輔がしたように、両手で大輔の耳を覆う。
「あんたが悪い。折田さん、あんたが俺をこんな風にした……知ってるだろ?」
 見つめる瞳に自分が映っている。目の前の男に欲情して、浅ましくも妖しく誘う自分の姿が映っている。どうかこの姿が、大輔に愛しいものとして映ってくれるようにと祈る。
 大輔が望めば、どんな姿だって晒せるのだ。今までの自分では考えられなかった姿を晒せるのは、他ならない大輔の前だけなのだと、そんな風に変えてしまったのは、目の前のお前だけなのだと教えたい。
 お互いに惹かれるように合わさる口づけは、すぐに深いものとなった。
 ――それは、長い夜が始まるという合図だった。
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